長い間、下書きにしていた記事を少しずつ書き足しを繰り返して、ようやく更新です💧
1/17は阪神・淡路大震災から29年。
昨年末に約30年ぶりに当時15歳まで住んでいた家のあった場所へ行きました。子供の頃に観た情景は浮かぶのに、その場所にあった当時の景色は完全に上書きされていました。
コの字型の2F建アパートの前にあった桜並木は消え、アパートの敷地内にあった屋根付きの駐車場も何もかもなく、規模の縮小された新しいマンションが建っていました。
まるで自分さえもその場所に居なかったかのような、何とも言えない気持ちでした。
でももしあの日、この場所に居たら、おそらくは生きていなかったと思います。あの震災で大きな被害を受けてほぼ全壊だったと後で母方の叔父から聞かされました。
住んでいたアパートの真向かいには母方の祖父母、叔父さん兄弟が住んでいた家もありましたが、震災で此方も家屋が半壊して住めなくなりました。
神戸の街が報道でクローズアップされる中、この北摂にも大きな被害があったことは余り語られていません。
良い思い出よりも辛く悲しく苦しい思い出の方が多かった街です。小5~中3の二学期まで、学校も勉強も何もかも大嫌いでした。
言い争いの絶えない家、性格がひねくれて暗くて友達は植物と動物だけ。
自殺未遂もありました。
先生も学校もまるごと敵に回して、壮絶ないじめが当たり前でした。
近くの川縁と伊丹空港が癒しの場所でした。
つい最近もこの夏に行われる母校の中学校の同窓会の話を仲の良かった親友から聞きましたが、当時の恩師も数年後に病で亡くなったと聞きましたし、今となっては何がなんでも会いたいと思う人は居ません。
いじめた当事者は忘れているものです。
謝られたとしても、赦せるでしょうか。
いつまで心狭いこと言ってるの、と、また責められ呆れられて、高いお金を払って、いじめられていた時の話をあてに酒を飲んで、苦笑いして何が楽しいのでしょう?
小物でも文化人になり、愚かな奴は連絡先を交換しようとする、うんざりです。
会いたくない人同士で会わなくても、自分が楽しいと思える人とこれから先、死ぬまで酒を酌み交わせばいい、時間の無駄を過ごす暇はないのです。
好きだった男の子、仲の良かった男の子も、偶然SNS で見つけましたが、長い年月がいつの間にか遠き昔の記憶の片隅へとそっと置き去りにしていました。
好きだった子の方は画像があって、当時の面影を残したまま大人になった顔を観た時、特別ときめいた気持ちは感じませんでした。
ただ自営してた彼のお父さんに似てきたなぁって思いました。
保育園時代から小二、ブランクがあって中一までの長い初恋の人だったのに、不思議な感覚でした。
今は関東に居るようで、結婚しているかはわかりませんでしたが、地元でも有名な一流最難関高校に進学後は関西でも有名な一流大学を経て、誰もが名前を聞けば知っている一流企業に就職、エリートコースを上り詰め最近早期退職していました。起業でもして社長でもやっているのかも知れません。
その子の友達の中に、意外にも自身がいじめに遭うまで仲の良かった男の子が居ました。
本人の顔写真はなかったけれど、医学系の大学に進学後、今は美人の奥さんと結婚して、可愛い娘さんと海の向こうに居るみたいです。
自身が長いいじめに遭うきっかけのひとつとなったのは、彼でした。
まだお互い子供でしたし、自身は単に女らしい格好をするのが嫌で、女らしい遊びより、男の子がやるような遊びの方が断然面白くて男の子とばかり遊んでいました。
オカンに着せられるレースヒラヒラ昭和服は当時のお転婆な自分には足枷でしかなかったので、ストレスでしかありませんでした。
今で言う性同一性障害ではなく、ボーイッシュな格好良い服が好きで、今でもスカートよりパンツ派です。
大人になって、ゴシックスタイルにはまってようやくレースヒラヒラドレスも着る様になりましたが、子供の頃はとにかく嫌いでした。
毎日日焼けも怪我も気にせず、泥んこで真っ黒に日焼けして日が暮れるまで宿題もそっちのけで遊んでいましたから。
小二まではマンモス校に居て、小三から新しくできた小学校に校区が変わり、保育園の初恋の君と再会し、想いが再燃するのは中学校に上がってからです。
新しい小学校では自身よりも更に日焼けしてた元気な男の子と同じクラスになり、仲良くなり、毎日のように遊んでいました。
当時は風呂無しアパートに住んでいたから、徒歩15分位の銭湯に通ってて、帰りはその男の子の家の並びのたこ焼き屋でたこ焼き買って帰っていました。
その子のオカンとうちのオカンが仲良かったし、おばちゃんとも家族ぐるみでした。
それがクラスの女子達の嫉妬に変わったのが小5の頃。小5で彼とはクラスは離れてしまって、小4まではその子の居たグループの男の子達と遊んで居たのですが、昭和のF4(花より男子)みたいな人気グループで、中でも彼は自身には粗っぽい扱い、ツレ感覚でしたが、女子にはとにかく優しかった上に、色黒のイケメンだったから、物凄くモテていたと、後で知りました。
自身は色恋感情はなくて、おもろかったらそれでいい、みたいな感覚でした。
彼に近づきたくて自身に近づいて来た女子が居たけど、自身がそういう女子達の乙女心など当時は到底理解できる訳もなく、KY かつ家庭環境荒んでて性格も悪かった上、協調性ゼロの特定の群れに属さない昭和のフリーランス思考も災いして、自業自得でもありました。
昔の女子校気質が苦手なガキでした。
媚びない、群れない、猫みたいな性格が、男子の興味をそそり、女子には疎ましい存在でした。
今思えば、小4は医者の息子とも仲良くしてたので、これが大人バージョンだったら、とんでもなくプレーガール、魔性の女って状態ですね。
その男の子とはウルトラマン消しゴム、切手コレクターで交換してただけでした。
お顔は今の天皇陛下に似てましたね。
ただその子のオカンは貧乏な庶民の子とのお付き合いは~って、感じでしたし、疎遠になりました。恋愛感情なくて、単にヒッポリト星人の消しゴムに興味があっただけでしたけど😂。
そんな無自覚にあらゆる男子と遊び渡り歩くのが到底許せんかったのでしょう。
女子達にとっては、
「なんであんなアホでブスが、鳴鹿くんと仲良うしてんねんな、気に食わんわ💢」的な嫌悪から始まり、言い出したのはクラスの女子でも一番目立っていたグループで影響力も強く、その子達に逆らったら自分達も苛められるから、いじめの輪は広がって行きました。
当時から理不尽には人一倍反抗心もあり、いじめに屈しない自身。
苛める側も面白くないから、自分の兄弟姉妹を使って来ました。
そのとばっちりで妹マノンは犠牲になりました。ただ妹は自身以上に負けん気が強かったので、矛先は自身に全集中。
ゲーセンで上級生の男子不良軍団にも絡まれいちゃもんをつけられ、反抗して胸ぐらを捕まれる始末でした。
女子からクラス全体、横の学年に、更には先生、学校全体を敵に回してました。
そこへ転校してきた子が、どんなに突き放しても自身に着いてきました。
今も付き合いは続いている大親友Kです。
父の転勤で中3の2学期の終わり、クリスマスの日に今の京都に引っ越しして、母方の祖父が亡くなって以降は親友たちも結婚して街を離れたこともあり親友には会っても故郷には戻らなくなっていました。
あれから40年。
神社の森は伐採されて駐車場に変わり、境内全体が少しインスタ映えするようなおしゃれな雰囲気、手水場には花、ライトアップなど時代を感じさせました。
子供の頃に遊んだ神社では今も夏にはお祭りがあり、母方の祖父がお正月には決まって妹マノンと自身を厄払い祈祷に連れて来てくれました。
太鼓と笛の音色に白い着物、赤い袴姿の巫女が鈴をシャンシャン鳴らしながら舞う。
正座する足の痺れを我慢しながら早く終わってほしいとその様を見ていた子供の頃の自分が蘇りました。
物心ついた頃には父母は言い争い、クリスマスやお正月は毎年大喧嘩、父に暴力を振るわれ、逃げた場所がこの産土神社。
供えてあったお賽銭を盗んで宮司さんに見つかって怒られたこともありました。
そういった子供の頃の過ちも含めて、長い暇への懺悔に馳せ参じました。
産土神社は生まれたときからその生涯を終える最後の時までお守り頂ける神様です。
京都に移った後も色々ありましたが、母が、父が、そして昨年、家族を苦しめていた父の姉(伯母)も亡くなり、黒い縁が切れていく中ですべてを水に流して前に進もうという気持ちになれたからかもしれません。
父の兄弟姉妹に会うことでパンドラの箱が開き、知りたくもなかった事実もまた表に出て、一度は許そうとしてまた引き戻されて、それでもそういった感情を断ち切りたい思いが最後は勝って、今度こそ穏やかな時間を生きていこうと…。
憎しみや怨みや怒りは自分自身に刃が向くとわかったから、異国の戦争を愁いて、同じ過ちは犯してはならないと、そう思う今日この頃です。
浄化の意味で、久しぶりにプロットが次々と浮かんできました。
また書けよ、そう背中を押されているのか、そんな衝動に駆られました。
本を初めて書いた時の様に、必要なら形になって行く気がします。
Excentric*Kanon